樹海日記

なんでも書きます。

感情のままに。

かつて、僕はこんな文章を綴ったことがある。

タイタニックのようなロマンチックで切ない恋物語を目にした時、
昼メロドラマのドロドロの人間関係の中で交わされる略奪愛の様を見た時、
あなたはどう思うだろうか。

登場人物に自分を重ね、「あのセリフ分かるわ~」「私もこんな恋がしたい!」
という風に感じるのなら、感情移入型と分類したい。

他方、「ふーん」「まぁエンターテイメントだしね」「俺には関係ないな」
という人は傍観型ということにする。

僕自身は感情移入をして物語を見ると、見終わったあとに
現実とのとてつもないギャップを感じて虚無感でいっぱいになるので
傍観型の人間だと思っている。

感情移入に抵抗があるということは、こと恋愛に関しては僕は
あまり容易に他人に影響されることがない、ということになる。
更に言えば、そういうテーマに関して消極的というか、
言ってしまえばあまり興味がないと、そういうことになる。

どうしても登場人物の心情に入り込む前に作品自体の展開だったり描写、
人物の関係性に目が向いてしまう。

もちろんそれは僕自身にそういった経験があまりにも少ない、ということも
起因しているのだけどそれを考え出すとどちらが先で、という鶏と卵の話に
なってしまうのでそれは考えないようにする。

気持ち悪い自分語りは例として目を瞑って欲しい。

何が言いたいかというと、作品に没入する、主観的に見る人と
客観的に見る、傍観する人がいるということに尽きる。

 

 7年前、21歳の自分は物語を客観的な視点を主として鑑賞していた。というよりも意図して、コントロールして入り込まないように見ていたのだと思う。

その後に引き戻されるゴミのような現実とのギャップに恐怖して、「こんな夢見心地の世界に入り込んで良いのか」と自問して、その答えとしてキャラクターに感情移入しない鑑賞をしてきた。

振り返って、それを勿体無いとは思わない。実際に当時の生活環境は人間として最低限の生活すら危ういようなひどいものだったし、精神状態もかなり疲弊していた。

本を読んだり、アニメを見る行為自体が逃避の手段であり目的だったので、それ以上に負荷を掛けたくなかったというのがいうのが正直なところだったのだと思う。

目の前の1日に必死で、気を抜けば住む家すら無くなっているかもしれない、誇張では無くそんな現実だった。当然、恋だの愛だのは犬に喰わせておけとかそんなレベルよりも下、クソ以下のテーマだった。


それがこの1~2年で作品に入り込ままいとしていたはずが読んでいて、見ていて涙を堪えている自分がいたことに気付いた。作品だけで無く、とあるニュースに対しても。

一つはダヴィデ・アストーリの死だ。僕自身、熱心なフィオレンティーナのサポーターでは無かったけど、セリエAを良く見るし、フィオレンティーナはその中でも好きなチームの一つでもある。

左利きのセンターバックとしては代表でもキエッリーニの次に上手い選手だと思っていたし、彼のピッチ上でのクールな振る舞いはすごく印象が良かった。

突然の死自体にはショックを受けたのみだった。消化しきれなかったのかもしれない。その後、様々な選手・監督から追悼の意をコメントが出されたのを見て僕は泣いた。そして、フィレンツェのサンタ・クローチェ大聖堂で行われたアストーリの葬儀の様子を見て涙を堪えきれなかった。

涙に理由なんて無い、というのは体の良い逃げ口上だと僕は思っている。でも、自分は何に涙を流したのかはっきりとは分からないのも事実だ。彼のプレーをもう見られない悲しみや喪失感、カルチョがイタリアの人々にとって生活の一部であり、選手は家族なんだということを見ての感動、色んな感情が渦巻いて涙が溢れてきたのかもしれない。


もう一つは「りゅうおうのおしごと」だ。作品を読んで様々な場面で泣きそうになるのを堪えた。


表紙やアニメの序盤を見る限りはロリコンな主人公と幼女が中心のハーレム作品で将棋はその駒でしか無いと思うかもしれない、最初は僕もそう思っていた。

実際に読むとスポ根的な部分が目に付くし、勝負事に対しての葛藤が随所に見える作品だと感じる。将棋の要素はしっかりと絡めつつも心理描写が緻密なのが良い。

ネタバレになるのであまり詳細には書かないが、原作3巻、アニメ7話の桂香の部分がこの作品に入り込むきっかけになったと思う。

危機感と焦り、結果が出ない自分への苛立ちと才能の無さを自覚する恐怖、そして過去の自分との対比と、自身に重ねてしまう部分が多くて余計に感情移入してしまった、せざるを得なかった。

あとがきを読んで作者自身を投影したのがこのキャラクターだったというのを見て、そして作者自身のこれまでの成り立ちを読んで、ますます虜になったというのもある。

僕自身も自営業の端くれで、結果が全ての世界で生きている。特に小売業というのは結果=売上で、いささか暴論かもしれないが売れないということは社会に必要とされていないという証明にもなってしまう。

自身のやり方が本当に正しいのかといつも疑ってしまうし、資本のある企業が本気で進出してきたらどうしようかという不安もある。周りを見ても同じスタートじゃない時点で嫉妬の感情しか生まれない。

他が1から10に、最低でも0からスタートしている中、僕のような底辺でディスアドバンテージ持ちはマイナスを0にすることから始めないといけない。要するに、本当にやりたいことに集中できないということだ。

0から1、1から10にする方法は分かっているけど、それに注力できるベースを作ることに四苦八苦している。文句を言っていても始まらないのでやるしかない。

良いやり方が良い結果に結び付くとも限らない、クソな方法でも力技で結果を作り出す奴もいる。そんな中でずっと生きてきたし、色んな感情を抱いてきた。

だからこそ、同じような状態に陥ったキャラクターに感情移入してしまったのだと思う。

この7年で色んなことを経験したけど、いつまで経っても成功したと思えない、思い描いた到達点には全然足りてないし、辿り着くことが出来るのかと不安になることも多々ある。

色んな感情があるからこそ、以前のようにコントロールして鑑賞出来ない部分が出てきているのかもしれない。作品にその感情の栓を抜かれるような感じだ。
歳を取ると涙もろくなるというのはこういうことなのかな、と思ったりもする。

悪い変化だとは思わない。当時よりは周りに興味というか関心を持つ、わずかな余裕が生まれているのかなと。事実、7年前よりは最低限人間的な生活は出来ている。それでもまだ自分自身で手一杯なのは変わらない。

スタートがどマイナスである以上、亀のような速度になるのは仕方ない部分ではある。消化しきれないけど、事実そうなのだから仕方ない。

とはいえ、物語に入り込みすぎることへの危機感というか恐怖は持ち続けるべきだし、そうありたいとも思っている。これは自身のポリシーというか、芯の部分での話だ。
ファンタジー世界には自分の居場所は無い。

一生ファンタジーに浸るには、現実で動かずとも生活できるくらい稼ぐしか無いのだから。

取り留めの無い話になってしまったけど、自分にもエモーショナルな部分があるということを自覚したことがこの文章を書くにあたっての始まりだ。

数年振りのまとまった文章だったので、推敲すれば修正して追加する部分は山程出てくるだろうけど、感情に任せた感じを優先したい。

それでは気が向いたらまた何か書きます。

[追記]

本文では触れなかったが、1年ほど前に「さよならフットボール」を読んで泣いたのが人生で初めて漫画で泣いた経験だった。素晴らしい作品なので、サッカーに興味がない人もぜひ読んで欲しい。